1月23日は八甲田雪中行軍遭難事件が起きた日です
正確には1902年(明治35年)1月23日午前6時に
日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊第2大隊が
青森市から八甲田山での冬季訓練に出発した日だ
どの時点で遭難と判断するのかはわからないが
この後210名中199名が死亡する大惨事になってしまうのです
立ったまま仮死状態となっていた後藤伍長が
1月27日に捜索隊に発見されるまで
遭難したとは誰も思いたくなかったんだからね
その数日前
弘前からは弘前歩兵第31連隊38名が
同じ訓練に出発している
青森市側からと弘前市側から
同時に真冬の八甲田を走破しようという訓練だった
弘前隊は直接八甲田に入らず
十和田湖、十和田市を経由してから
数日後に八甲田に入山するルートをとった
訓練初日に八甲田に突入した青森隊とは対照的だ
弘前隊が全員生還した大きな理由のひとつだね
津軽平野でロケされた弘前31連隊の行進場面
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新田次郎原作「八甲田山死の彷徨」
中学の時に読んだ
その本を原作とした映画が大ヒットしたからだ
もちろん映画も見た
その映画のロケは
母校の眼と鼻の先で行われていた
青森隊を指揮した神成大尉役には北大路欣也
神成の上官で訓練をめちゃめちゃにした
山口少佐役に三國連太郎
監督は森谷司郎
製作は橋本忍、野村芳太郎
カメラが木村大作
音楽は芥川也寸志
すごいメンバーだった
◇
そもそも
なぜ日本陸軍はこのような極寒訓練を
しなければいけなかったのか?
1895年の日清戦争後の下関条約で
日本が得た中国の遼東半島を
ロシアとフランスは
ドイツを味方にして中国に返還させていました
この頃のロシアとドイツは敵対関係にあった
なぜその二国が手を組んだのか?
領土を広げたいロシア皇帝のニコライ2世と
黄色人種を恐れ差別する
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の
思惑が一致したからとされています
ロシアはさらに南下して
朝鮮半島にまで圧力を強め始めます
この遼東半島返還以来
日本軍は日露戦争開戦への道を進んで行きました
八甲田の雪中行軍訓練は
当時緊張が高まっていたロシアとの戦争を仮定しての
準備だったのです
首相・伊藤博文がロシアとの戦争には
絶対反対を唱えていた中での訓練実行
そして遭難で多くの犠牲者を出してしまったのですから
軍と総理の間にも亀裂が入ってしまった事でしょう
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さて、ニコラシカというカクテルを御存じかと思います
レモンスライスとお砂糖を口に含んで噛み噛みしたあとに
ブランデー60cc程を一気に飲み干すというものですね
カクテル名なのか、飲み方なのか良く分からないですね
カクテルブックによると
いつ誰が考え出したのか全く分からないそうです
はっきりしているのは
ドイツのハンブルグで誕生したという事と
ニコラシカとはロシア男性に多い
「ニコライ」という名前の愛称だという事です
ニコライ、ドイツ、ブランデー・・・
偶然ですが役者が揃った気がしませんか?
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ロシアのニコライ皇帝
ロシアに敵対していたドイツ・ヴィルヘルム2世
ロシアと同盟を組んでいたフランスはブランデーの主産国
私の勝手な仮説ですが
もしかしたら「ニコラシカ」はこの時代(日露戦争開戦直前)に
ロシアとフランスを嫌っていた
ドイツ人が考えたのではないでしょうか
ブランデー(フランス)に
ロシア皇帝の名をつけて一気に飲み干す
しかもシェークやステアーなどの技法を使わずに
ただ口の中でグチャグチャレモンをかみ砕く粗野な飲み方で…
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今日のカクテルはニコラシカにしましょう
Nikolaschka Cocktail
Recipe
Brandy 60ml
スライスしたレモンと砂糖を口に含み嚙合わせる
ブランデーと一緒に一気に飲み干す
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八甲田では冬に限らず
現在でも時々遭難事件が発生します
最近では、とある高校の外国人講師が
スノーボードを楽しんでいる途中で
コースアウトして遭難
一晩を山中で過し翌朝
捜索隊に発見され助かりました
外国人の彼女は
遠い昔の八甲田雪中行軍事件を知りません
助かった彼女への取材で
質問した新聞記者が凍りつきました
「こっちじゃない!向こうに進め!
と軍服の人に言われたから
そのとおりに進んだら助かりました。」
が、助かった彼女の答え
彼女に限らず
八甲田で遭難して生還した人は
同じような事をコメントするらしいのです…