伊集院静。「岬へ」。

2011年11月8日 火曜日

 伊集院静氏、怒涛の自伝的長編三部作。

海峡(幼児から小学生まで)、春雷(中学、高校まで)

そして東京の大学に進学してからを描いた、「岬へ」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第八章 たらちねの声 より

 絹子が起き上がって沖合いを指差している。

「正雄」

 とまた声を上げた。海を見ると、浜は小雨に煙っていた。絹子の指さした右の岩場の方角に、

ちいさな点があるような気がした。絹子がまた名前を呼んだ。絹子は目を見開いて、鋭い視線を

沖合いの一点にむけている。

「女将さん、ありゃ、蛸壺でしょう。あのあたりには蛸壺がたくさんありますから」

 背後で若衆の声がした。英雄が時計を見ると、朝の五時半だった。

 足音がした。絹子は立ち上がり、海の家の最前部へ出て、手すりに摑まり英雄を呼んだ。

「英さん、正雄、正雄よ」

 英雄は立ち上がり、絹子のそばに駆け寄って沖合いを見た。雨に煙る水面に黒い点が揺れている

が、若衆の言うように蛸壺にかたちが似ていた。絹子が英雄の二の腕を掴んだ。爪が喰い込み、

痛みが走った。皆が絹子の周りに集まった。浜へ源造が出て来た。

「おい、船を出して確認しろ」

 源造が若衆にむかって声を上げた。若衆が浜へ飛び降り、桟橋にむかって駆け出した。

「女将さん、すぐに確認させますから……」

 源造が絹子に言った。絹子は揺れるちいさな影から目を離さなかった。斉次郎も浜へ出てき

た。

 桟橋を出発した漁船が、右の岩場にむかって波を蹴立てて進んで行く。船はたちまち現場へ近

づいた。迂回しながら船がちいさく一周した。船上から白い旗が上がった。それは発見した時の合

図だった。

 ウオーッと若衆たちの声が上がった。白い旗がもう一度勢い良くふられた。

伊集院氏は実際に弟さんを水難事故で亡くしているそうです。

このシーンを描くことは嫌なことを思い出す作業だったかもしれない。

小説家と言うのは、案外辛い仕事なのかもしれないな。