伊集院静氏、怒涛の自伝的長編三部作。
海峡(幼児から小学生まで)、春雷(中学、高校まで)
そして東京の大学に進学してからを描いた、「岬へ」。
第八章 たらちねの声 より
絹子が起き上がって沖合いを指差している。
「正雄」
とまた声を上げた。海を見ると、浜は小雨に煙っていた。絹子の指さした右の岩場の方角に、
ちいさな点があるような気がした。絹子がまた名前を呼んだ。絹子は目を見開いて、鋭い視線を
沖合いの一点にむけている。
「女将さん、ありゃ、蛸壺でしょう。あのあたりには蛸壺がたくさんありますから」
背後で若衆の声がした。英雄が時計を見ると、朝の五時半だった。
足音がした。絹子は立ち上がり、海の家の最前部へ出て、手すりに摑まり英雄を呼んだ。
「英さん、正雄、正雄よ」
英雄は立ち上がり、絹子のそばに駆け寄って沖合いを見た。雨に煙る水面に黒い点が揺れている
が、若衆の言うように蛸壺にかたちが似ていた。絹子が英雄の二の腕を掴んだ。爪が喰い込み、
痛みが走った。皆が絹子の周りに集まった。浜へ源造が出て来た。
「おい、船を出して確認しろ」
源造が若衆にむかって声を上げた。若衆が浜へ飛び降り、桟橋にむかって駆け出した。
「女将さん、すぐに確認させますから……」
源造が絹子に言った。絹子は揺れるちいさな影から目を離さなかった。斉次郎も浜へ出てき
た。
桟橋を出発した漁船が、右の岩場にむかって波を蹴立てて進んで行く。船はたちまち現場へ近
づいた。迂回しながら船がちいさく一周した。船上から白い旗が上がった。それは発見した時の合
図だった。
ウオーッと若衆たちの声が上がった。白い旗がもう一度勢い良くふられた。
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伊集院氏は実際に弟さんを水難事故で亡くしているそうです。
このシーンを描くことは嫌なことを思い出す作業だったかもしれない。
小説家と言うのは、案外辛い仕事なのかもしれないな。
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