4月8日のカクテル フェニックス・ジン・スリング

2019年4月8日 月曜日

4月8日のカクテル

フェニックス・ジンスリング  Phoenix Gin Sling

Recipe

ドライジン  Dry Gin    40ml
チェリー・ブランデー     Cherry Brandy    10ml
レモン・ジュース   Lemon Juice      10ml

シュガー・シロップ  Suger Sirop  5ml

ソーダ Soda Water   Full up

クラッシュアイスをたっぷり入れたコリンズグラスに材料を注ぎ、

バースプーンで静かに混ぜる。

スライスレモンとマラスキーノチェリーをカクテルピンにさして飾る。

ストローを添える。

平成7年大晦日、NHKホールでは恒例の紅白歌合戦が行われていました。

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1月に阪神・淡路大震災が発生したこの年の紅白は。

被災者に元気を取り戻してほしいという

特別な願いのあるものでした。

視聴者から、大トリは被災地となった神戸の街がモチーフとなっている

『そして、神戸』にしてほしいという要望が殺到したそうです。

諸般の事情により(神戸だけが被災地ではないから…?)、

大トリは細川たかしが歌う、『望郷じょんから』に決まりましたが、

この年の最高視聴率をたたき出したのは,

やはり前川清が『そして、神戸』を歌い上げた時だったそうです。

しかしながら、『望郷じょんから』も『そして、神戸』も

作曲者は同じ人、…というのは演歌ファンなら周知のことですよね。

 

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 (幼少期を過ごした大鰐町)

 

 

作曲者は浜圭介さん。

浜さんは昭和21年4月8日、旧満州の収容所で生まれました。

引き上げ先の青森県大鰐町で幼少期を過ごし、

8歳の時に北海道に移住しました。

大鰐町で過ごした母との思い出が『望郷じょんから』になり、

札幌での暮らしが、後に北原ミレイの『石狩挽歌』に繋がったと

浜さんは言っています。

 

昭和38年、17才の浜さんは歌手になるために上京。

牧宏次の芸名でデビューしました。

昭和41年には大木賢と改名して再デビューしますが

ヒット曲に恵まれず、一度は歌手をあきらめ東京を後にしたのです。

浜さんの最初の挫折でした。

 

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故郷の札幌には帰れず、

知人のいた青森県弘前市に移り住んだ浜さん。

おりしも弘前は名物の桜が満開、浜さんはお花見の祭の中で

焼きそばやおでんを売る屋台で働いたそうです。

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 (弘前の桜祭り)

 

「この頃、人生の厳しさをはじめて知った。元歌手だという過去も忘れて、

屋台の小僧になりきった」と浜さんは語っています。

ポップスやロック一辺倒だった浜さんは

弘前で酒を覚え、やがて演歌の心を知ることになったのです。

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 (弘前・かくみ小路)

 

ある日、弘前の居酒屋で偶然隣に座った50歳前後の女性客が

浜さんに身の上話を始めたそうです。

「天涯孤独の孤児で、生きるために嫌なこともやってきた…。」

問わず語りの女性の言葉に、

「自分よりも辛い生き方をしている人はたくさんいる、

自分はまだまだガキだ…」、と浜さんは感じたそうです。

そして、その女性が語ったやるせない人生をモチーフに、

『おんな道』という曲を書き上げたのです。

 

『おんな道』

生まれた時から みなし子で

親の顔さえ わからずに

夜に生まれて 夜に育った

女の姿

嫌なお客に せがまれて

男の枕に されながら

つくる笑顔も 生きるため

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 (レコードジャケット)

 

 

この曲を抱え、浜さんは再び上京。

昭和44年、浜真二の名でついに三度目のデビュー、

やがて『おんな道』は30万枚を売るヒット曲になったのです。

 

それから2年。

アメリカの生の音楽に触れる旅に出ていた浜さん。

旅の最後の夜、窓から眺めたニューヨークの

何とも言えない濃い色の「雨」をみて、

すらすらとメロディーが生まれたそうです。

千家和也さんが曲に合わせて詩を書き、

あの名曲『終着駅』が、誕生したのでした。

 

『終着駅』

落ち葉の舞い散る 停車場は

悲しい女 の吹きだまり

だから今日もひとり 明日もひとり

涙を捨てにくる

 

終着駅のデモテープを聴いて、

これは自分の新しい方向を確立してくれる曲だと直感し

自分が歌いたいと手を挙げたのが奥村チヨさんでした。

奥村さんの直感は見事に当たり

昭和46年12月25日に発売された『終着駅』は

ミリオンセラーとなったのです。

 

その後も、

『そして、神戸』 (内山田洋とクールファイブ)、

『雨』 (三善英史)、

『街の灯り』 (堺正章)

と、浜さんの曲は次々とヒットしました。

そんな中、浜さんの元にひとつの詩が届きました。

なかにし礼さんからの作曲依頼です。

詩のタイトルは『石狩挽歌』。

なかにしさんと浜さん、

旧満州生まれで北海道育ちという、

同じ境遇の二人が出会って生まれた曲は

『ソーラン節』を連想させる壮大な曲となり

北原ミレイさんの代表曲ともなったのです。

 

ところが石狩挽歌以来、浜さんは曲が書けなくなりました。

スランプです。

浜さんは友人の新聞記者に助けを求めました。

その友人はあらかじめ用意しておいた何作かの詩を

浜さんに見せます。

すると浜さんはある詩に釘付けとなりました。

そして1週間でその詩に曲をつけてしまったのです。

いったん友人のデスクに預かられたその曲は

実に3年間もそのデスクに保管されることになりました。

 

昭和54年、長い間眠っていたその曲を

八代亜紀さんが歌うことになり空前のヒット曲となりました。

曲名は『舟歌』。

その翌年、同じ八代亜紀さんに提供した『雨の慕情』で

浜さんはついにレコード大賞を受賞するのです。

 

自らが若い頃に苦労をしたせいか、

浜さんは、埋もれている歌手を発掘することにも力を注いでいます。

韓国では桂銀淑さんを発掘し『大阪暮色』をはじめ、

たくさんの曲をヒットさせました。

18年間ヒットの無かった高山巌さんには、

『心凍らせて』を提供、高山さん初のヒット曲となります。

 

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浜さんの友人の北原照久さん(ブリキのおもちゃ博物館 館長)は

10代の頃から浜さんをアニキと慕っていました。

「浜さんは絶対に諦めない、夢を形にしていく人を間近で見た」

と語っています。

辛い時期を過ごした弘前時代。

『終着駅』、『石狩挽歌』、『舟歌』が出来るまでの、努力。

いつも、浜さんはピンチから蘇ってきました。

今日のカクテルは不死鳥を意味するカクテル、

「フェニックス・ジン・スリング」にしましょう。

どんなピンチからでも、あきらめずに蘇ってくるという不屈の作曲家。

4月8日は、作曲家・歌手の浜圭介さんが生まれた日です。

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